麗辞―令和七年
或阿呆の一生、芥川龍之介
六 病
彼は絕え間ない潮風の中に大きい英吉利語の辭書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。
Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。
Tale 話。
Talipot 東印度に產する椰子。幹は五十呎より百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等に用ひらる。七十年に一度花を開く。………
彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は喉もとに今までに知らない痒さを感じ、思はず辭書の上へ啖を落した。啖を?――しかしそれは啖ではなかつた。彼は短い命を思ひ、もう一度この椰子の花を想像した。この遠い海の向うに高だかと聳えてゐる椰子の花を。
三十一 大地震
それはどこか熟し切つた杏の匂に近いものだつた。彼は燒けあとを步きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外惡くないと思つたりした。が、死骸の重なり重つた池の前に立つて見ると、「酸鼻」と云ふ言葉も感覺的に決して誇張でないことを發見した。殊に彼を動かしたのは十二三歲の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を燒かれてゐた。しかし彼の姉の夫は僞證罪を犯した爲に執行猶豫中の體だつた。……
「誰も彼も死んでしまへば善い。」
彼は燒け跡に佇んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
三十四 色 彩
三十歲の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。そこには唯苔の生えた上に煉瓦や瓦の缺片などが幾つも散らかつてゐるだけだつた。が、それは彼の目にはセザンヌの風景畫と變りはなかつた。
三十六 倦 怠
彼は或大學生と芒原の中を步いてゐた。
「君たちはまだ生活欲を盛に持つてゐるだらうね?」
「えゝ、――だつてあなたでも………」
「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」
それは彼の眞情だつた。彼は實際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。
「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」
彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穗の上にはつきりと噴火山を露し出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。………
四十二 神々の笑ひ聲
三十五歲の彼は春の日の當つた松林の中を步いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出來ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。………
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模樣の海は薄明りの中に絕えず水沫を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歡びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稻妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、淚をこらへてゐるらしかつた。
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「檣の二つに折れた船が。」
四十四 死
彼はひとり寢てゐるのを幸ひ、窓格子に帶をかけて縊死しようとした。が、帶に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの爲に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懷時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼かもぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を檢べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを發見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗の中に荒あらしい鷄の聲もしてゐた
四十九 剝製の白鳥
彼は最後の力を盡し、彼の自敍傳を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出來なかつた。それは彼の自尊心や懷疑主義や利害の打算の未だに殘つてゐる爲だつた。彼はかう云ふ彼自身を輕蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剝いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と眞實と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自敍傳の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文藝上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ氣も彼には働いてゐた。彼はその爲に手短かに彼の「詩と眞實と」を書いて見ることにした。
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剝製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を擧げて立つてゐたものの、黃ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、淚や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯發狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往來をたつた一人步きながら、徐ろに彼を滅しに來る運命を待つことに決心した。
五十 俘
彼の友だちの一人は發狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤獨の、――輕快な假面の下にある孤獨の人一倍身にしみてわかる爲だつた。彼はこの友だちの發狂した後、二三度この友だちを訪問した。
「君や僕は惡鬼につかれてゐるんだね。世紀末の惡鬼と云ふやつにねえ。」
この友だちは聲をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或溫泉宿へ出かける途中、薔薇の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「檢察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。
彼はすつかり疲れ切つた揚句、ふとラディゲの臨終の言葉を讀み、もう一度神々の笑ひ聲を感じた。それは「神の兵卒たちは己をつかまへに來る」と云ふ言葉だつた。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と鬪はうとした。しかしどう云ふ鬪ひも肉體的に彼には不可能だつた。「世紀末の惡鬼」は實際彼を虐んでゐるのに違ひなかつた。彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出來なかつた。あのコクトオさへ信じた神を!
五十一 敗 北
彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴェロナアルを用ひて覺めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刄のこぼれてしまつた、細い劍を杖にしながら。
こゝろ、夏目漱石
先生と私
一
私は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此處でもたゞ先生と書く丈で本名を打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々しい頭文字抔はとても使ふ氣にならない。
二十六
私の自由になつたのは、八重櫻の散つた枝にいつしか靑い葉が霞むやうに伸び始める初夏の季節であつた。私は籠を拔け出した小鳥の心をもつて、廣い天地を一目に見渡しながら、自由に羽搏きをした。私はすぐ先生の家へ行つた。枳殼の垣が黑ずんだ枝の上に、萌るやうな芽を吹いてゐたり、石榴の枯れた幹から、つや/\しい茶褐色の葉が、柔らかさうに日光を映してゐたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて始めてそんなものを見るやうな珍らしさを覺えた。
やがて若葉に鎖ざされたやうに蓊欝した小高い一構への下に細い路が開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだら/\上りになつてゐる入口を眺めて、「這入つて見やうか」と云つた。私はすぐ「植木屋ですね」と答へた。
植込の中を一うねりして奧へ上ると左側に家があつた。明け放つた障子の内はがらんとして人の影も見えなかつた。たゞ軒先に据ゑた大きな鉢の中に飼つてある金魚が動いてゐた。
「靜かだね。斷わらずに這入つても構はないだらうか」
「構はないでせう」
二人は又奧の方へ進んだ。然しそこにも人影は見えなかつた。躑躅が燃えるやうに咲き亂れてゐた。先生はそのうちで樺色の丈の高いのを指して、「是は霧島でせう」と云つた。
芍藥も十坪あまり一面に植付けられてゐたが、まだ季節が來ないので花を着けてゐるのは一本もなかつた。此芍藥畠の傍にある古びた緣臺のやうなものゝ上に先生は大の字なりに寢た。私は其餘つた端の方に腰を卸して烟草を吹かした。先生は蒼い透き徹るやうな空を見てゐた。私は私を包む若葉の色に心を奪はれてゐた。其若葉の色をよく/\眺めると、一々違つてゐた。同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けてゐるものは一つもなかつた。細い杉苗の頂に投げ被せてあつた先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
私は思想上の問題に就いて、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。然し同じ問題に就いて、利益を受けやうとしても、受けられない事が間々あつたと云はなければならない。先生の談話は時として不得要領に終つた。其日二人の間に起つた郊外の談話も、此不得要領の一例として私の胸の裏に殘つた。
無遠慮な私は、ある時遂にそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑つてゐた。私は斯う云つた。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構ひまんせんが、ちやんと解つてる癖に、はつきり云つて吳れないのは困ります」
「私は何にも隱してやしません」
「隱してゐらつしやいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいふものと、私の過去とを、ごちや/\に考へてゐるんぢやありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考へを無暗に人に隱しやしません。隱す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それは又別問題になります」
「別問題とは思はれません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆ど價値のないものになります。私は魂の吹き込まれてゐない人形を與へられた丈で、滿足は出來ないのです」
先生はあきれたと云つた風に、私の顏を見た。卷烟草を持つてゐた其手が少し顫へた。
「あなたは大膽だ」
「たゞ眞面目なんです。眞面目に人生から敎訓を受けたいのです」
「私の過去を訐いてもですか」
訐くといふ言葉が、突然恐ろしい響を以て、私の耳を打つた。私は今私の前に坐つてゐるのが、一人の罪人であつて、不斷から尊敬してゐる先生でないやうな氣がした。先生の顏は蒼かつた。
「あなたは本當に眞面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけてゐる。だから實はあなたも疑つてゐる。然し何うもあなた丈は疑りたくない。あなたは疑るには餘りに單純すぎる樣だ。私は死ぬ前にたつた一人で好いから、他を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人になれますか。なつて吳れますか。あなたは腹の底から眞面目ですか」
「もし私の命が眞面目なものなら、私の今いつた事も眞面目です」
私の聲は顫へた。
「よろしい」と先生が云つた。「話しませう。私の過去を殘らず、あなたに話して上げませう。其代り‥‥。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程有益でないかも知れませんよ。聞かない方が增かも知れませんよ。それから、―今は話せないんだから、其積でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」
私は下宿へ歸つてからも一種の壓迫を感じた。
三十二
私の論文は自分が評價してゐた程に、敎授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭くなつた古い冬服を行李の中から出して着た。式塲にならぶと、何れもこれもみな暑さうな顏ばかりであつた。私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身體を持て餘した。しばらく立つてゐるうちに手に持つたハンケチがぐしよ/\になつた。
私は式が濟むとすく歸つて裸體になつた。下宿の二階の窓をあけて、遠目鏡(とほめがね)のやうにぐる/\卷いた卒業證書の穴から、見える丈の世の中を見渡した。それから其卒業證書を机の上に放り出した。さうして大の字になつて、室の眞中に寐そべつた。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未來を想像した。すると其間に立つて一區切を付けてゐる此卒業證書なるものが、意味のあるやうな、又意味のないやうな變な紙に思はれた。
私は其晩先生の家へ御馳走に招かれて行つた。是はもし卒業したら其日の晩餐は餘所で食はずに、先生の食卓で濟ますといふ前からの約束であつた。
食卓は約束通り座敷の緣近くに据ゑられてあつた。模樣の織り出された厚い糊の硬い卓布が美くしく且淸らかに電燈の光を射返してゐた。先生のうちで飯を食ふと、屹度此西洋料理店に見るやうな白いリン子ルの上に、箸や茶碗が置かれた。さうしてそれが必ず洗濯したての眞白なものに限られてゐた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用ひる位なら、一層始から色の着いたものを使ふが好い。白ければ純白でなくつちや」
斯う云はれて見ると、成程先生は潔癖であつた。書齋なども實に整然と片付いてゐた。無頓着な私には、先生のさういふ特色が折々著るしく眼に留まつた。
「先生は癇性ですね」とかつて奧さんに告げた時、奧さんは「でも着物などは、それ程氣にしないやうですよ」と答へた事があつた。それを傍に聞いてゐた先生は、「本當をいふと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考へると實に馬鹿々々しい性分だ」と云つて笑つた。精神的に癇性といふ意味は、俗に神經質といふ意味か、又は倫理的に潔癖だといふ意味か、私には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた。
其晩私は先生と向ひ合はせに、例の白い卓布の前に坐つた。奧さんは二人を左右に置いて、獨り庭の方を正面にして席を占めた。
「御目出たう」と云つて、先生が私のために盃を上げて吳れた。私は此盃に對して夫程嬉しい氣を起さなかつた。無論私自身の心が此言葉に反響するやうに、飛び立つ嬉しさを有つてゐなかつたのが、一つの原因であつた。けれども先生の云ひ方も決して私の嬉しさを唆る浮々した調子を帶びてゐなかつた。先生は笑つて杯を上げた。私は其笑のうちに、些とも意地の惡いアイロエーを認めなかつた。同時に目出たいといふ眞情も汲み取る事が出來なかつた。先生の笑は、「世間はこんな塲合によく御目出たうと云ひたがるものですね」と私に物語つてゐた。
奧さんは私に「結構ね。嘸御父さんや御母さんは御喜びでせう」と云つて吳れた。私は突然病氣の父の事を考へた。早くあの卒業證書を持つて行つて見せて遣らうと思つた。
「先生の卒業證書は何うしました」と私が聞いた。
「何うしたかね、―まだ何處かに仕舞つてあつたかね」と先生が奧さんに聞いた。
「えゝ、たしか仕舞つてある筈ですが」
卒業證書の在處は二人とも能く知らなかつた。
私はさうした矛盾を汽車の中で考へた。考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた。私は又先生夫婦の事を想ひ浮べた。ことに二三日前晩食に呼ばれた時の會話を憶ひ出した。
「何つちが先へ死ぬだらう」
私は其晩先生と奧さんの間に起つた疑問をひとり口の内で繰り返して見た。さうして此疑問には誰も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奧さんは何うするだらう。先生も奧さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控へながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。
中 兩親と私
一
宅へ歸つて案外に思つたのは、父の元氣が此前見た時と大して變つてゐない事であつた。
「あゝ歸つたかい。さうか、それでも卒業が出來てまあ結構だつた。一寸御待ち、今顏を洗つて來るから」
父は庭へ出て何か爲てゐた所であつた。古い麥藁帽の後へ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戶のある裏手の方へ廻つて行つた。
學校を卒業するのを普通の人間として當然のやうに考へてゐた私は、それを豫期以上に喜こんで吳れる父の前に恐縮した。
「卒業が出來てまあ結構だ」
父は此言葉を何遍も繰り返した。私は心のうちで此父の喜びと、卒業式のあつた晩先生の家の食卓で、「御目出たう」と云はれた時の先生の顏付とを比較した。私には口で祝つてくれながら、腹の底でけなしてゐる先生の方が、それ程にもないものを珍らしさうに嬉しがる父よりも、て高尙に見えた。私は仕舞に父の無知から出る田舍臭い所に不快を感じ出した。
「大學位卒業したつて、それ程結構でもありません。卒業するものは每年何百人だつてあります」
私は遂に斯んな口の利きやうをした。すると父が變な顏をした。
「何も卒業したから結構とばかり云ふんぢやない。そりや卒業は結構に違ないが、おれの云ふのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解つてゐて吳れさへすれば、‥‥」
私は父から其後を聞かうとした。父は話したくなささうであつたが、とうとう斯う云つた。
「つまり、おれが結構といふ事になるのさ。おれはお前の知つてる通りの病氣だらう。去年の冬お前に會つた時、ことによるともう三月か四月位なものだらうと思つてゐたのさ。それが何ういふ仕合せか、今日迄斯うしてゐる。起居に不自由なく斯うしてゐる。そこへお前が卒業して吳れた。だから嬉しいのさ。折角丹精した息子が、自分の居なくなつた後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに學校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだらうぢやないか。大きな考を有つてゐるお前から見たら、高が大學を卒業した位で、結構だ/\と云はれるのは餘り面白くもないだらう。然しおれの方から見て御覽、立塲が少し違つてゐるよ。つまり卒業はお前に取つてより、此おれに取つて結構なんだ。解つたかい」
私は一言もなかつた。詫まる以上に恐縮して俯向いてゐた。父は平氣なうちに自分の死を覺悟してゐたものと見える。しかも私の卒業する前に死ぬだらうと思ひ定めてゐたと見える。其卒業が父の心に何の位響くかも考へずにゐた私は全く愚ものであつた。私は鞄の中から卒業證書を取り出して、それを大事さうに父と母に見せた。證書は何かに壓し潰されて、元の形を失つてゐた。父はそれを鄭寧に伸した。
「こんなものは卷いたなり手に持つて來るものだ」
「中に心でも入れると好かつたのに」と母も傍から注意した。
父はしばらくそれを眺めた後、起つて床の間の所へ行つて、誰の目にもすぐ這入るやうな正面へ證書を置いた。何時もの私ならすぐ何とかいふ筈であつたが、其時の私は丸で平生と違つてゐた。父や母に對して少しも逆らう氣が起らなかつた。私はだまつて父の爲すが儘に任せて置いた。一旦癖のついた鳥の子紙の證書は、中々父の自由にならなかつた。適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢を得て倒れやうとした。
五
父の元氣は次第に衰ろへて行つた。私を驚かせたハンケチ付の古い麥藁帽子が自然と閑却されるやうになつた。私は黑い煤けた棚の上に載つてゐる其帽子を眺めるたびに、父に對して氣の毒な思ひをした。父が以前のやうに、輕々と動く間は、もう少し愼んで吳れたらと心配した。父が凝と坐り込むやうになる、矢張り元の方が達者だつたのだといふ氣が起つた。私は父の健康に就いてよく母と話し合つた。
「全く氣の所爲だよ」と母が云つた。母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考へてゐた。私にはさう許りとも思へなかつた。
「氣ぢやない、本當に身體が惡かないんでせうか。何うも氣分より健康の方が惡くなつて行くらしい」
私は斯う云つて、心のうちで又遠くから相當の醫者でも呼んで、一つ見せやうかしらと思案した。
「今年の夏は御前も詰らなからう。折角卒業したのに、御祝もして上げる事が出來ず、御父さんの身體もあの通りだし。それに天子樣の御病氣で。―いつその事、歸るすぐに御客でも呼ぶ方が好かつたんだよ」
私が歸つたのは七月の五六日で、父や母が私の卒業を祝ふために客を呼ばうと云ひだしたのは、それから一週間後であつた。さうして愈と極めた日はそれから又一週間の餘も先になつてゐた。時間に束縛を許さない悠長な田舍に歸つた私は、御蔭で好もしくない社交上の苦痛から救はれたも同じ事であつたが、私を理解しない母は少しも其處に氣が付いてゐないらしかつた。
崩御の報知が傳へられた時、父は其新聞を手にして、「あゝ、あゝ」と云つた。
「あゝ、あゝ、天子樣もとう/\御かくれになる。己も‥‥」
父は其後を云はなかつた。
私は黑いうすものを買ふために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひら/\を付けて、門の扉の橫から斜めに往來へさし出した。旗も黑いひら/\も、風のない空氣のなかにだらりと下つた。私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあつた。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに變色して、薄く灰色を帶びた上に、所々の凸凹さへ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黑いひら/\と、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構へは何んな體裁ですか。私の鄕里の方とは大分趣が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此古い家を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが恥づかしくもあつた。
私は又一人家のなかへ這入た。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何んなに暗いなかで何んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黑いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時此燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其灯も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控へてゐるのだとは固より氣が付かなかつた。
私は今度の事件に就いて先生に手紙を書かうかと思つて、筆を執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已めた。書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。(先生に宛てゝさう云ふ事を書いても仕方がないとも思つたし、前例に徴して見ると、とても返事を吳れさうになかつたから)。私は淋しかつた。それで手紙を書くのであつた。さうして返事が來れば好いと思ふのであつた。
七
父は明らかに自分の病氣を恐れてゐた。然し醫者の來るたびに蒼蠅い質問を掛て相手を困らす質でもなかつた。醫者の方でも亦遠慮して何とも云はなかつた。
父は死後の事を考へてゐるらしかつた。少なくとも自分が居なくなつた後のわが家を想像して見るらしかつた。
「小供に學問をさせるのも、好し惡しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅へ歸つて來ない。是ぢや手もなく親子を隔離するために學問させるやうなものだ」
學問をした結果兄は今遠國にゐた。敎育を受けた因果で、私は又東京に住む覺悟を固くした。斯ういふ子を育てた父の愚痴はもとより不合理ではなかつた。永年住み古した田舍家の中に、たつた一人取り殘されさうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違ひなかつた。
わが家は動かす事の出來ないものと父は信じ切つてゐた。其中に住む母も亦命のある間は、動かす事の出來ないものと信じてゐた。自分が死んだ後、この孤獨な母を、たつた一人伽藍堂のわが家に取り殘すのも亦甚だしい不安であつた。それだのに、東京で好い地位を求めろと云つて、私を强ひたがる父の頭には矛盾があつた。私は其矛盾を可笑しく思つたと同時に、其御蔭で又東京へ出られるのを喜こんだ。
私は父や母の手前、此地位を出來る丈の努力で求めつゝある如くに裝ほはなくてはならなかつた。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して吳れと賴んだ。私は先生が私の依賴に取り合ふまいと思ひながら此手紙を書いた。又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた。然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた。
私はそれを封じて出す前に母に向かつて云つた。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたの仰しやつた通り。一寸讀んで御覽なさい」
母は私の想像したごとくそれを讀まなかつた。
「さうかい、夫ぢや早く御出し。そんな事は他が氣を付けないでも、自分で早く遣るものだよ」
母は私をまだ子供のやうに思つてゐた。私も實際子供のやうな感じがした。
「然し手紙ぢや用は足りませんよ。何うせ、九月にでもなつて、私が東京へ出てからでなくつちや」
「そりや左右かも知れないけれども、又ひよつとして、何んな好い口がないとも限らないんだから、早く賴んで置くに越した事はないよ」
「えゝ。兎に角返事は來るに極つてますから、さうしたら又御話ししませう」
私は斯んな事に掛けて几帳面な先生を信じてゐた。私は先生の返事の來るのを心待に待つた。けれども私の豫期はついに外れた。先生からは一週間經つても何の音信もなかつた。
「大方どこかへ避暑にでも行つてゐるんでせう」
私は母に向つて云譯らしい言葉を使はなければならなかつた。さうして其言葉は母に對する言譯許りでなく、自分の心に對する言譯でもあつた。私は强ひても何かの事情を假定して先生の態度を辯護しなければ不安になつた。
私は時々父の病氣を忘れた。いつそ早く東京へ出てしまはうかと思つたりした。其父自身もおのれの病氣を忘れる事があつた。未來を心配しながら、未來に對する處置は一向取らなかつた。私はついに先生の忠告通り財產分配の事を父に云ひ出す機會を得ずに過た。
十七
其日は病人の出來がことに惡いやうに見えた。私が厠へ行かうとして席を立つた時、廊下で行き合つた兄は「何處へ行く」と番兵のやうな口調で誰何した。
「何うも樣子が少し變だから成るべく傍にゐるやうにしなくつちや不可ないよ」と注意した。
私もさう思つてゐた。懷中した手紙は其儘にして又病室へ歸つた。父は眼を開けて、そこに並んでゐる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々說明して遣ると、父は其度に首肯いた。首肯かない時は、母が聲を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「何うも色々御世話になります」
父は斯ういつた。さうして又昏睡狀態に陷つた。枕邊を取り卷いてゐる人は無言の儘しばらく病人の樣子を見詰めてゐた。やがて其中の一人が立つて次の間へ出た。すると又一人立つた。私も三人目にとう/\席を外して、自分の室へ來た。私には先刻懷へ入れた郵便物の中を開けて見やうといふ目的があつた。それは病人の枕元でも容易に出來る所作には違なかつた。然し書かれたものゝ分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで讀み通す譯には行かなかつた。私は特別の時間を偸んでそれに充てた。
私は纖維の强い包み紙を引き搔くやうに裂き破つた。中から出たものは、縱橫に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿樣のものであつた。さうして封じる便宜のために、四つ折に疊まれてあつた。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して讀み易いやうに平たくした。
私の心は此多量の紙と印氣が、私に何事を語るのだらうかと思つて驚ろいた。私は同時に病室の事が氣にかゝつた。私が此かきものを讀み始めて、讀み終らない前に、父は屹度何うかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極つてゐるといふ豫覺があつた。私は落ち付いて先生の書いたものを讀む氣になれなかつた。私はそわ/\しながらたゞ最初の一頁を讀んだ。其頁は下のやうに綴られてゐた。
「あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として敎へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で噓になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました」
私は其處迄讀んで、始めて此長いものが何のために書かれたのか、其理由を明かに知る事が出來た。私の衣食の口、そんなものに就いて先生が手紙を寄こす氣遣ひはないと、私は初手から信じてゐた。然し筆を執ることの嫌ひな先生が、何うしてあの事件を斯う長く書いて、私に見せる氣になつたのだらう。先生は何故私の上京する迄待つてゐられないだらう。
「自由が來たから話す。然し其自由はまた永久に失はれなければならない」
私は心のうちで斯う繰返しながら、其意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲はれた。私はつゞいて後を讀まうとした。其時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の聲が聞こえた。私は又驚いて立ち上つた。廊下を駈け拔けるやうにしてみんなの居る方へ行つた。私は愈父の上に最後の瞬間が來たのだと覺悟した。
十八
病室には何時の間にか醫者が來てゐた。なるべく病人を樂にするといふ主意から又浣膓を試みる所であつた。看護婦は昨夜の疲れを休める爲に別室で寐てゐた。慣れない兄は起つてまご/\してゐた。私の顏を見ると、「一寸手を御貸し」と云つた儘、自分は席に着いた。私は兄に代つて、油紙を父の尻の下に宛てがつたりした。
父の樣子は少しくつろいで來た。三十分程枕元に坐つてゐた醫者は、浣膓の結果を認めた上、また來ると云つて、歸つて行つた。歸り際に、若しもの事があつたら何時でも呼んで吳れるやうにわざ/\斷つてゐた。
私は今にも變がありさうな病室を退いて又先生の手紙を讀まうとした。然し私はすこしも寛くりした氣分になれなかつた。机の前に坐るや否や、又兄から大きな聲で呼ばれさうでならなかつた。左右して今度呼ばれゝば、それが最後だといふ畏怖が私の手を顫はした。私は先生の手紙をたゞ無意味に頁丈剝繰つて行つた。私の眼は几帳面に枠の中に篏められた字畫を見た。けれどもそれを讀む餘裕はなかつた。拾ひ讀みにする餘裕すら覺束なかつた。私は一番仕舞の頁迄順々に開けて見て、又それを元の通りに疊んで机の上に置かうとした。其時不圖結末に近い一句が私の眼に這入つた。
「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」
私ははつと思つた。今迄ざわ/\と動いてゐた私の胸が一度に凝結したやうに感じた。私は又逆に頁をはぐり返した。さうして一枚に一句位づゝの割で倒に讀んで行つた。私は咄嗟の間に、私の知らなければならない事を知らうとして、ちら/\する文字を、眼で刺し通さうと試みた。其時私の知らうとするのは、たゞ先生の安否だけであつた。先生の過去、かつて先生が私に話さうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取つて、全く無用であつた。私は倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に與へて吳れない此長い手紙を自烈たさうに疊んだ。
私は又父の樣子を見に病室の戶口迄行つた。病人の枕邊は存外靜かであつた。賴りなささうに疲れた顏をして其處に坐つてゐる母を手招ぎして、「何うですか樣子は」と聞いた。母は「今少し持ち合つてるやうだよ」と答へた。私は父の眼の前へ顏を出して、「何うです、浣膓して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯いた。父ははつきり「有難う」と云つた。父の精神は存外朦朧としてゐなかつた。
私は又病室を退いて自分の部屋に歸つた。其處で時計を見ながら、汽車の發着表を調べた。私は突然立つて帶を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で醫者の家へ馳け込んだ。私は醫者から父がもう二三日保つだらうか、其處のところを判然聞かうとした。注射でも何でもして、保たして吳れと賴まうとした。醫者は生憎留守であつた。私には凝として彼の歸るのを待ち受ける時間がなかつた。心の落付もなかつた。私はすぐ俥を停車塲へ急がせた。
私は停車塲の壁へ紙片を宛てがつて、其上から鉛筆で母と兄あてゞ手紙を書いた。手紙はごく簡單なものであつたが、斷らないで走るよりまだ增しだらうと思つて、それを急いで宅へ屆けるやうに車夫に賴んだ。さうして思ひ切つた勢ひで東京行の汽車に飛び乘つてしまつた。私は轟々鳴る三等列車の中で、又袂から先生の手紙を出して、漸く始めから仕舞迄眼を通した。
下 先生と遺書
四十一
「私は丁度他流試合でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體、すべて私といふ名の付くものを五分の隙間もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ明け放しと評するのが適當な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。
Kが理想と現實の間に彷徨してふら/\してゐるのを發見した私は、たゞ一打で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虛に付け込んだのです。私は彼に向つて急に嚴肅な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先づ「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云ひ放ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讎ではありません。私は復讎以上に殘酷な意味を有つてゐたといふ事を自白します。私は其一言でKの前に橫たはる戀の行手を塞がうとしたのです。
Kは眞宗寺に生れた男でした。然し彼の傾向は中學時代から決して生家の宗旨に近いものではなかつたのです。敎義上の區別をよく知らない私が、斯んな事をいふ資格に乏しいのは承知してゐますが、私はたゞ男女に關係した點についてのみ、さう認めてゐたのです。Kは昔しから精進といふ言葉が好でした。私は其言葉の中に、禁慾といふ意味も籠つてゐるのだらうと解釋してゐました。然し後で實際を聞いて見ると、それよりもまだ嚴重な意味が含まれてゐるので、私は驚ろきました。道のためには凡てを犧牲にすべきものだと云ふのが彼の第一信條なのですから、攝慾や禁慾は無論、たとひ慾を離れた戀そのものでも道の妨害になるのです。Kが自活生活をしてゐる時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。其頃から御孃さんを思つてゐた私は、勢ひ何うしても彼に反對しなければならなかつたのです。私が反對すると、彼は何時でも氣の毒さうな顏をしました。其處には同情よりも侮蔑の方が餘計に現はれてゐました。
斯ういふ過去を二人の間に通り拔けて來てゐるのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だといふ言葉は、Kに取つて痛いに違ひなかつたのです。然し前にも云つた通り、私は此一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らした積ではありません。却てそれを今迄通り積み重ねて行かせやうとしたのです。それが道に達しやうが、天に屆かうが、私は構ひません。私はたゞKが急に生活の方向を轉換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は單なる利己心の發現でした。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
私は二度同じ言葉を繰り返しました。さうして、其言葉がKの上に何う影響するかを見詰めてゐました。
「馬鹿だ」とやがてKが答へました。「僕は馬鹿だ」
Kはぴたりと其處へ立ち留つた儘動きません。彼は地面の上を見詰めてゐます。私は思はずぎよつとしました。私にはKが其刹那に居直り强盜の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の聲が如何にも力に乏しいといふ事に氣が付きました。私は彼の眼遣ひを參考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顏を見ないのです。さうして、徐々と又步き出しました。
四十二
「止めて吳れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もと/\君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」
私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る强情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。我々は夕暮の本鄕臺を急ぎ足でどしどし通り拔けて、又向ふの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。私は其頃になつて、漸やく外套の下に體の温か味を感じ出した位です。
四十三
「其頃は自覺とか新らしい生活とかいふ文字のまだない時分でした。然しKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新らしい方角へ走り出さなかつたのは、現代人の考へが彼に缺けてゐたからではないのです。彼には投げ出す事の出來ない程尊とい過去があつたからです。彼はそのために今日迄生きて來たと云つても可い位なのです。だからKが一直線に愛の目的物に向つて猛進しないと云つて、決して其愛の生溫い事を證據立てる譯には行きません。いくら熾烈な感情が燃えてゐても、彼は無暗に動けないのです。前後を忘れる程の衝動が起る機會を彼に與へない以上、Kは何うしても一寸踏み留まつて自分の過去を振り返らなければならなかつたのです。さうすると過去が指し示す路を今迄通り步かなければならなくなるのです。其上彼には現代人の有たない强情と我慢がありました。私は此双方の點に於て能く彼の心を見拔いてゐた積なのです。
上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。
私は程なく穩やかな眠に落ちました。然し突然私の名を呼ぶ聲で眼を覺ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、其處にKの黑い影が立つてゐます。さうして彼の室には宵の通りまだ燈火が點いてゐるのです。急に世界の變つた私は、少しの間口を利く事も出來ずに、ぼうつとして、其光景を眺めてゐました。
其の時Kはもう寢たのかと聞きました。Kは何時でも遲く迄起きてゐる男でした。私は黑い影法師のやうなKに向つて、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、たゞもう寐たか、まだ起きてゐるかと思つて、便所へ行つた序に聞いて見た丈だと答へました。Kは洋燈の灯を脊中に受けてゐるので、彼の顏色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の聲は不斷よりも却て落ち付いてゐた位でした。
Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇に歸りました。私は其暗闇より靜かな夢を見るべく又眼を閉ぢました。私はそれぎり何も知りません。然し翌朝になつて、昨夕の事を考へて見ると、何だか不思議でした。私はことによると、凡てが夢ではないかと思ひました。それで飯を食ふ時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと云ひます。何故そんな事をしたのかと尋ねると、別に判然した返事もしません。調子の拔けた頃になつて、近頃は熟睡が出來るのかと却て向ふから私に問ふのです。私は何だか變に感じました。
其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました。けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません。私はあの事件に就いて何か話す積ではなかつたのかと念を押して見ました。Kは左右ではないと强い調子で云ひ切りました。昨日上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないかと注意する如くにも聞こえました。Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました。すると今迄丸で氣にならなかつた其二字が妙な力で私の頭を抑へ始めたのです。
五十三
「書物の中に自分を生理にする事の出來なかつた私は、酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試みた時期もあります。私は酒が好きだとは云ひません。けれども飮めば飮める質でしたから、ただ量を賴みに心を盛り潰さうと力めたのです。此淺薄な方便はしばらくするうちに私を猶厭世的にしました。私は爛醉の眞最中に不圖自分の位置に氣が付くのです。自分はわざと斯んな眞似をして己れを僞つてゐる愚物だといふ事に氣が付くのです。すると身振ひと共に眼も心も醒めてしまひます。時にはいくら飮んでも斯うした假裝狀態にさへ入り込めないで無暗に沈んで行く塲合も出て來ます。其上技巧で愉快を買つた後には、屹度沈鬱な反動があるのです。私は自分の最も愛してゐる妻と其母親に、何時でも其處を見せなければならなかつたのです。しかも彼等は彼等に自然な立塲から私を解釋して掛ります。
妻の母は時々氣拙い事を妻に云ふやうでした。それを妻は私に隱してゐました。然し自分は自分で、單獨に私を責めなければ氣が濟まなかつたらしいのです。責めると云つても、決して强い言葉ではありません。妻から何か云はれた爲に、私が激した例は殆どなかつた位ですから。妻は度々何處が氣に入らないのか遠慮なく云つて吳れと賴みました。それから私の未來のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いて「貴方は此頃人間が違つた」と云ひました。それ丈なら未可いのですけれども、「Kさんが生きてゐたら、貴方もそんなにはならなかつたでせう」と云ふのです。私は左右かも知れないと答へた事がありましたが、私の答へた意味と、妻の了解した意味とは全く違つてゐたのですから、私は心のうちで悲しかつたのです。それでも私は妻に何事も說明する氣にはなれませんでした。
私は時々妻に詫まりました。それは多く酒に醉つて遲く歸つた翌日の朝でした。妻は笑ひました。或は默つてゐました。たまにぽろ/\と淚を落す事もありました。私は何方にしても自分が不愉快で堪まらなかつたのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのと詰まり同じ事になるのです。私はしまひに酒を止めました。妻の忠告で止めたといふより、自分で厭になつたから止めたと云つた方が適當でせう。
酒は止めたけれども、何もする氣にはなりません。仕方がないから書物を讀みます。然し讀めば讀んだなりで、打ちやつて置きます。私は妻から何の爲に勉强するのかといふ質問を度々受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益悲しかつたのです。私は寂寞でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました。
同時に私はKの死因を繰返し/\考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲でもありませうが、私の觀察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正しく失戀のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向つて見ると、さう容易くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、―それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決したのではなからうかと疑ひ出しました。さうして又慄としたのです。私もKの步いた路を、Kと同じやうに辿つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を橫過り始めたからです。
五十四
母は死にました。私と妻はたつた二人ぎりになりました。妻は私に向つて、是から世の中で賴りにするものは一人しかなくなつたと云ひました。自分自身さへ賴りにする事の出來ない私は、妻の顏を見て思はず淚ぐみました。さうして妻を不幸な女だと思ひました。又不幸な女だと口へ出しても云ひました。妻は何故だと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを說明してやる事が出來ないのです。妻は泣きました。私が不斷からひねくれた考で彼女を觀察してゐるために、そんな事を云ふやうになるのだと恨みました。
私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした。
私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ每月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。
私がさう決心してから今日迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしいのです。それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします。
五十五
「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。然し私が何の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言で直ぐたりと萎れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。
波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯した苦しい戰爭があつたものと思て下さい。妻が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を步いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。
記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後には何時でも黑い影が括ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度會ふ積でゐたのです。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も强く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟時勢遲れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戲ひました。
五十六
「私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。
それから約一ケ月程經ちました。御大葬の夜私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ/\と云ひました。
私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へました。
Blue、川野 芽生
その間、病院に通うこともできなかった。「不要不急」の医療行為の多くがストップした。二次性徴が再開した眞靑の背はみるみる伸びて、顔は低なった。顎にはまばらに鬚が生え出して、剃るたびに肌ざらついていった。剃刀を手にするたび、鬚だけでなく肌までも削ぎ落としたいような気分になった。何をどこまで削ぎ落ちとしたら本当の自分が取り戻せるのかわからなかった。
高校の時のジャージを着て家に籠もっている間に、今の自分にはもうスカートが穿けないと思うようになっていた。高校の時に買った数少ない私服はどれもサイズが小さくなった。そうでなくても今ではもう「男が女装している」ようにしか見えないと眞靑は思った。
身体への違和少ない方だと眞靑は思う。いや、身体そのものに対しては騒染めなさを感じているけれど、特定の部位を切除したり、新たな部位を作ったりすることにはさほど興味がない。どちらの性別の性器も別に要らないが、あったところでどれが自分を決定するとは思わない。眞靑はただ女性として──あるいは男性でないものとして生活できればそれでいい。ただ「男の出来慣れない」とか「偽物の女」と見なされるのは耐え難い。目立ったり穿鑿されたり不審者扱いされたりせず、普通に暮らしていくには、やたらに誇りを傷付けられることもなく、自活して生きていくには、結局は「ちゃんとした女性」に見える必要がある。そのためには見た目は重要だった。「男っぽい」見た目に変化していく自分を、眞靑はまるで、怪物の孵化を見守るように、見つめていた。
一年が経ち、対面授業が部分的に再開されると、青はまず何を着たらいいかに悩んだ。手持ちの服ではもう外に出られなかったから、通販で「ジェンダーレス」や「ユニセックス」を謳っているファストファッションブランドから、ぎりぎり「ボーイッシュな女の子」に見えなくもないようなプルオーバーとワイドパンツを買った。自分の身体の大きさを把握していなかったから、サイズは適当だった。
その格好をして、バイトを探しに行った。履歴書の性別欄に悩んだが、「男」を選ぶしかなかった。ただでさえバイトの口は減っているのに、少しでも不審な印象を与えてしまったら面接には通らないだろう。
何とかコンビニのバイトの口にありつき、短期のバイトや日雇いのバイトにも登録した。 もう一年を無駄にしてしまったと、焦ってバイトを詰め込むと、当然ながら成績は落ちた。 バイトを減らすよう両親から電話が来た。何のためにバイトをしているかは秘密にしていた。奨学金が打ち切られないよう、眞靑も必死だった。睡眠時間を削り、食費を切り詰めた。
大学の保健センターで、鬱状態にあると告げられた。
世間ではトランス差別がますます澈化していく。トランスジェンダーだとばれたら性犯罪者を見るような目で見られる。特に、性別適合手術を受けていないトランス女性は。女性の格好をして人前に出ることがとても不可能に思えた。
両親は、性別適合手術やホルモン治療を受けた子供が大人になって後悔する、といったデマ記事のリンクを送ってくるようになった。
足元に深が開けている気がした。
限りなく透明に近いブルー、村上龍
脈を打って震えている僕のペニスを握りしめて、唇が僕の腹に触れる程深く含んだ。舌で押さえつけて舐め回し、噛み、ザラザラしたちょうど猫のように尖った舌で尿道を撫でる。射精しそうになるとまた舌を離す。女の尻はこちらを向いている。はちきれそうに拡がり滑らかで汗に光っている。僕は手を伸ばし片方の肉に思いきり爪を食い込ませる。黒人女は呻いて尻を左右にゆっくりと振る。ブクブクに太った白人の女が僕の足元に座った。薄い金色の陰毛の下に赤黒い性器が垂れている。まるで切り取られた豚の肝臓だ。ジャクソンは荒っぽく白人女の巨大な乳房を掴み僕の顔を指差す。白い腹にかぶさった乳房を揺すって僕を覗き込み、ジャクソンのペニスで割られた唇に触れ、プリティと小さな口で笑う。僕の片足を持ち、べとついた豚の肝臓に擦りつける。足の指はたまらなくいやな感触で動かされ、白人の女からは腐った蟹の肉そっくりの匂いがして、僕は吐こうとした。喉が痙攣してジャクソンのペニスをちょっと噛んでしまい、ものすごい声を出して引き抜いたジャクソンは、僕の頬を強く殴った。鼻血が流れるのを見て白人の女はまあ恐しいと笑い、さらに強く足に股を擦りつける。黒人女が舌で血を拭ってくれた。野戦病院の看護婦のように優しく笑いかけ、もうすぐあれが来るようにしてあげる、いかせてあげる、と耳許で囁く。僕の右足は白人女の巨大な性器に埋まり始める。切れている口の中にジャクソンはまたペニスを差し込んでくる。僕は必死で吐気に耐えた。血でヌルヌルの舌に刺激されてジャクソンは生温い液体を吐いた。痰そっくりのねばねばした精液が喉に詰まる。血と混じったそのピンク色の液体を思いきり吐き出し、僕は黒人女にいかせてくれと叫んだ。
街灯に照らされたその黒い背中を、最初ガラスの破片と間違えた。虫は石に這い上がって方向を決めている。安全だと思ったのか草の茂みに降り、それらを薙なぎ倒して流れてくる雨水に呑まれてしまった。
雨はいろいろな場所で弾ねて様々な違った音をたてる。草と小石と土の上に、吸い込まれるように落ちる雨は、小さな楽器を思わせる音で降る。手の平に乗る程の玩具のピアノみたいなその音は、まだ残るヘロインの余波がたてる耳鳴りに重なる。
女が道路を走っている。靴を手に持って裸足で水飛沫しぶきをあげる。濡れたスカートが体に貼り付くのか、裾を持って拡げ、車がはね上げる水を避けながら。
雷が光り雨はさらに激しくなった。僕の脈はひどく遅く体はとても冷たい
目を刺すネオンサインや体を真二つに引き裂く対向車のヘッドライト、巨大な水鳥の叫び声そっくりの音で追い抜いていくトラック、突然立ちふさがる大木や誰も住んでいない道端の壊れた家、わけのわからない機械が並び煙突から炎を噴き上げる工場、鎔鉱炉から流れ出る液体の鉄に見える曲がりくねった道路。
生き物のように鳴きながらうねる暗い河、道路の脇に生えた踊っているように風で揺れる背の高い草、有刺鉄線に囲まれ湯気を上げて喘ぎ震えている変電所、そして狂ったように笑い続けているリリーとそれを見ている僕。
全ては自ら発光している。
雨で増幅されて光が作り出す影は、眠っている家々の白い壁に青白く伸び、怪物が一瞬歯を剥き出すように僕達を驚かせる。
きっと地中に潜っているのよ、大きなトンネルよ、ここはきっと、星も見えないし地下水が落ちてくるもの。冷んやりして、何かの裂け目よ、知らない生き物ばかりじゃないの。
無茶苦茶な蛇行と急停止をくり返し、どこを走っているのか二人共全然わからない。
ライトで全体を浮かび上がらせ、音をたてて聳そびえている変電所の前でリリーは車を止めた。
太いコイルが渦を巻き張り巡らされた金網。切り立つ崖のような鉄塔を眺める。
きっとここ裁判所よ、リリーはそう言って笑い始め、灯りに照らされて拡がった変電所を囲む畑を見回す。風に揺れるトマト畑。
まるで海だわ。
トマトは雨に濡れて暗闇の中で唯一赤い。クリスマスに樅の木や窓辺に飾られる小さな電球のように、トマトは点滅している。火花を散らしながら揺れる無数の赤い実は、まるで暗い深海に泳ぐ発光する牙を持つ魚のようだ。
「あれ何なの?」
「トマトだろう、トマトには見えないなあ」
「まるで海だわ、行ったことのない外国の海よ。何か浮いてるのよ、その海に」
「きっと機雷さ、入っちゃいけないんだ、守ってるんだ。あれに触ると爆発して死んじゃうよ、海を守ってるんだ」
ねえ、あなたの都市はどうなったの?
リリーは道路に仰向けに寝そべりそう聞く。
ポケットから口紅を取り出し、着ている服を破って、からだに塗り始める。笑いながら腹や胸や首に赤い線を描く。
ポケットから口紅を取り出し、着ている服を破って、からだに塗り始める。笑いながら腹や胸や首に赤い線を描く。
僕は何もないただ重油の匂いだけが充ちた頭の中に気付く。都市なんかどこにもない。
祭で踊り狂うアフリカの女みたいに口紅で顔に模様を描いたリリー。
ねえ、リュウ、あたしを殺してよ。何か変なのよ、あなたに殺して欲しいのよ。
目に涙を溜めてリリーが叫ぶ。僕達は放り出された。鉄条網にからだをぶつける。肩の肉に針が食い込む。僕はからだに穴をあけたいと思っている。重油の匂いから解放されたい、とただそれだけを思っている。そのことだけを考え続け周囲が全くわからなくなる。地面を這ってリリーが僕を呼ぶ。足をなげだし裸で地面に赤く縛られ、殺してくれと言い続けている。僕はリリーに近づいた。リリーは激しく身を震わせながら声をあげて泣き出す。
早く殺して、早く殺して。僕は赤い縞のある首に触れる。
その時空の端が光った。
青白い閃光が一瞬全てを透明にした。リリーのからだも僕の腕も基地も山々も空も透けて見えた。そして僕はそれら透明になった彼方に一本の曲線が走っているのを見つけた。これまで見たこともない形のない曲線、白い起伏、優しいカーブを描いた白い起伏だった。
リュウ、あなた自分が赤ん坊だってわかったでしょう? やっぱりあなた赤ん坊なのよ。
僕はリリーの首にかけた手を外し、リリーの口の中に溜まっていた白い泡を舌ですくった。リリーが僕の服を脱がし抱きしめる。
虹のような色の油がどこからか流れてきて僕達のからだで左右に別れた。
「ドアーズの〝水晶の船〟昔演やっただろ?
あれ今聞くと涙出るな、あのピアノ聞くとまるで自分が弾いてるような気分になってさ、たまらなくなるよ。もうすぐ何聞いてもたまらなくなるようになるかも知れないな、みんななつかしいだけになってさ。もう俺はいやだよ、リュウはどうするんだ? もうすぐお互いにはたちになるんだからなあ。メグみたいになるのはいやだよ、メグみたいな奴を見るのももうごめんだな」
「違わないよ、お前は俺よりずっと若いから知らないだけさ、お前な、フルートやれよ、お前フルートやるべきだよ、ヨシヤマみたいなアホとつき合わないでちゃんとやって見ろよ、ほらいつか俺の誕生日に吹いてくれただろ。
レイ子の店でさあ、あの時うれしかったよ。あの時何かこう胸がムズムズしてきてさ、何とも言えない気分になったんだ、すごく優しい気分にな。うまく言えないけど喧嘩した奴とまた仲直りしたみたいなそんな気分さ。あの時俺思ったんだ何てお前は幸せな奴なんだって思ったよ、お前がうらやましかったよ、あんな気分にさせるお前がさ。俺はよく知らないけど俺は何もできないからな。あれからまだああいう気分になったことないもんな、まあ実際に何かやる奴にはそいつにしかわからないことがあるかも知れないけどな。俺はただのジャンキーだけど、もうヘロインが切れてさあ、打ちたくて打ちたくてたまんない時あるんだよ、手に入れるためだったら人殺しでもするような時、そういう時に俺考えた事あったんだ。何かあるような気がしたんだ、いや俺とヘロインの間にさあ、何かがあってもいいような気がしたんだ。本当はもうガタガタ震えて気が狂う程ヘロインを打ちたいんだけど、俺とヘロインだけじゃあ何か足りないような気がしたな。打ってしまえばもう何も考えないけどな。それでその足りないものって言うのはさあ、よくわかんないけど、レイ子とかおふくろじゃないんだな、あの時のフルートだって思ったんだ。それでいつかお前に話そうと思ってたんだ。リュウはどういう気持ちで吹いたのか知らないけど俺はすごくいい気分になっただろう? あの時のリュウみたいなのがいつも欲しいと思うんだよ。注射器の中にヘロインを吸い込むたびに思うよ、俺はもうだめさ、からだが腐ってるからなあ。見ろよ、頭の肉がこんなにブヨブヨになって、もうすぐきっと死ぬよ。いつ死んでも平気さ、どうってことないよ、何も後悔なんか何もしてないしな。
ただ、あの時のフルート聞いたあの気分がどういうものかもっとよく知りたいな。それだけは感じるよ、あれ何だったのか知りたいよ。もし知ったらヘロイン止めようって思うかな、思わないだろうな。だからって言うわけじゃないけど、お前フルートやれよ、俺ヘロインさばいて金入ったらフルートのいいの買ってやるよ」
僕が救急車を呼びに行こうとするのをケイが腕を掴んで引き止めた。ケイはレイ子に支えられて起き上がり、血をボトボトこぼして立っているヨシヤマの目をじっと見た。ヨシヤマに近づき、そっと傷口に触れた。ヨシヤマはもう泣いていない。ケイはヨシヤマの割れた手首を持ち上げて目の前にかざし、腫れ上がった口を歪めてしゃべりにくそうに言った。
「ヨシヤマ、あたし達今から食事に行くわ、みんなお昼まだだから食べに行くわ。あんたね、死にたかったら一人で死ぬのね、リュウに迷惑かけないように外に出てって一人で死ぬのよ」
ポケットから親指の爪程に細かくなったガラスの破片を取り出し、血を拭った。小さな破片はなだらかな窪みをもって明るくなり始めた空を映している。空の下には病院が横に広がり、その遠くに並木道と町がある。
影のように映っている町はその稜線で微妙な起伏を作っている。その起伏は雨の飛行場でリリーを殺しそうになった時、雷と共に一瞬目に焼きついたあの白っぽい起伏と同じものだ。波立ち霞んで見える水平線のような、女の白い腕のような優しい起伏。
これまでずっと、いつだって、僕はこの白っぽい起伏に包まれていたのだ。
血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。
限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。
空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしまった。鳥の声が聞こえるともうガラスには何も映っていない。
アパートの前のポプラの側に、きのう捨てたパイナップルが転がっている。濡れている切り口からはまだあの匂いが漂っている。
僕は地面にしゃがみ、鳥を待った。
鳥が舞い降りてきて、暖い光がここまで届けば、長く延びた僕の影が灰色の鳥とパイナップルを包むだろう。
寒さ、芥川龍之介
「おい、どうしたんだい?」
「轢かれたんです。今の上りに轢かれたんです。」
小僧は早口にかう云つた。兎の皮の耳袋をした顏も妙に生き生きと赫いてゐた。
「誰が轢かれたんだい?」
「踏切り番です。學校の生徒の轢かれさうになつたのを助けやうと思つて轢かれたんです。ほら、八幡前に永井つて本屋があるでせう? あすこの女の子が轢かれる所だつたんです。」
「その子供は助かつたんだね?」
「ええ、あすこに泣いてゐるのがさうです。」
「あすこ」といふのは踏切りの向う側にゐる人だかりだつた。成程其處には女の子が一人、巡査に何か尋ねられてゐた。その側には助役らしい男も時時巡査と話したりしてゐた。踏切り番は――保吉は踏切り番の小屋の前に菰をかけた死骸を發見した。それは嫌惡を感じさせると同時に好奇心を感じさせるのも事實だつた。菰の下からは遠目にも兩足の靴だけ見えるらしかつた。
「死骸はあの人たちが持つて行つたんです。」
こちら側のシグナルの柱の下には鐵道工夫が二三人、小さい焚火を圍んでゐた。黄いろい炎をあげた焚火は光も煙も放たなかつた。それだけに如何にも寒さうだつた。工夫の一人はその焚火に半ズボンの尻を炙つてゐた。
保吉は踏切りを通り越しにかかつた。線路は停車場に近い爲、何本も踏切りを横ぎつてゐた。彼はその線路を越える度に、踏切り番の轢かれたのはどの線路だつたらうと思ひ思ひした。が、どの線路だつたかは直に彼の目にも明らかになつた。血はまだ一條の線路の上に二三分前の悲劇を語つてゐた。彼は殆ど反射的に踏切の向う側へ目を移した。しかしそれは無効だつた。冷やかに光つた鐵の面にどろりと赤いもののたまつてゐる光景ははつと思ふ瞬間に、鮮かに心へ燒きついてしまつた。のみならずその血は線路の上から薄うすと水蒸氣さへ昇らせてゐた。………
保吉はその遠い焚火に何か同情に似たものを感じた。が、踏切りの見えることはやはり不安には違ひなかつた。彼はそちらに背中を向けると、もう一度人ごみの中へ歸り出した。しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革の手袋を一つ落してゐることを發見した。手袋は卷煙草に火をつける時、右の手ばかり脱いだのを持つて歩いてゐたのだつた。彼は後ろをふり返つた。すると手袋はプラットフォオムの先に、手のひらを上に轉がつてゐた。それは丁度無言のまま、彼を呼びとめてゐるやうだつた。
保吉は霜曇りの空の下に、たつた一つ取り殘された赤革の手袋の心を感じた。同時に薄ら寒い世界の中にも、いつか温い日の光のほそぼそとさして來ることを感じた。
年末の一日、芥川龍之介
何度も同じ小みちに出入した後、僕は古樒を焚いてゐた墓地掃除の女に途を敎はり、大きい先生のお墓の前へやつとK君をつれて行つた。
お墓はこの前に見た時よりもずつと古びを加へてゐた。おまけにお墓のまはりの土もずつと霜に荒されてゐた。それは九日に手向けたらしい寒菊や南天の束の外に何か親しみの持てないものだつた。K君はわざわざ外套を脫ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しよにお時宜をする勇氣は出惡かつた。
「もう何年になりますかね?」
「丁度九年になる訣です。」
僕等はそんな話をしながら、護國寺前の終點へ引き返して行つた。
僕はK君と一しよに電車に乘り、僕だけ一人富士前で下りた。それから東洋文庫にいる或友だちを尋ねた後、日の暮に動坂へ歸り着いた。
動坂の往來は時刻がらだけに前よりも一層混雜してゐた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先ばかり見るやうに風立つた路を步いて行つた。
すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、楫棒に手をかけて休んでゐた。箱車はちよつと眺めた所、肉屋の車に近いものだつた。が、側へ寄つて見ると、橫に廣いあと口に東京胞衣會社と書いたものだつた。僕は後から聲をかけた後、ぐんぐんその車を押してやつた。それは多少押してやるのに穢い氣もしたのに違ひなかつた。しかし力を出すだけでも助かる氣もしたのに違ひなかつた。
北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。………