麗辞―令和六年
二百十日、夏目漱石
初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。
「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白いが一面に降りて、町のれのにがちらちらすると思うとまたが鳴る。かんかん竹の奥でえて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、をはめる」
圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。
「おうい。大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
鼻の先から出る黒煙りはのの各部がなくを起しつつあるごとく、むくむくとき上がって、から大気のにけ込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんはとして、首の消えた方角を見つめている。
しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首がと現われた。
初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。
「おうい。大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
鼻の先から出る黒煙りはのの各部がなくを起しつつあるごとく、むくむくとき上がって、から大気のにけ込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんはとして、首の消えた方角を見つめている。 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首がと現われた。
君はディッケンズの両都物語りという本を読んだことがあるか」
「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッケンズは読まない」
「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。──あの本のねの方に、お医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」
「へえ、どんなものだい」
「そりゃ君、の革命の起るまえに、貴族が暴威を振って細民を苦しめたことがかいてあるんだが。──それも今夜僕が寐ながら話してやろう」
「うん」
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの鳴って吹き出すのと同じことさ」と圭さんは立ち留まって、黒い烟の方を見る。
と天地をすを突き抜いて、百里の底から沸きる濃いものがを捲き、渦を捲いて、幾百の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の烟りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものとともに頭の上へり上がって来る。
雨と風のなかに、毛虫のようなをめて、余念もなく眺めていた、圭さんが、非常な落ち付いた調子で、
「雄大だろう、君」と言った。
「まったく雄大だ」と碌さんもで答えた。
圭さんは、のっそりとをめぐらした。碌さんはとしていて行く。空にあるものは、烟りと、雨と、風と雲である。地にあるものは青いと、と、ところどころにわびしく交るのみである。二人はとしてのを行く。
薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路をうている。身を横にしても、草に触れずに、進むわけにはいかぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白のに、とだけをにして、濡れた薄をがさつかさせて行く。腰から下はどぶのように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、よなを、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。
圭さんは雲と烟の這い回るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人薄のなかに立って、頼みにする友のを見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。
大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をって、よりしくとなる。その折は雨も烟りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、と立つ碌さんのへ突き当るように思われる。草は目を走らすかぎりを尽くしてことごとく烟りのなかに靡く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨のあいだを大きな雲が遠慮もなく這い回わる。碌さんは向うの草山を見詰めながら、えている。よなのしずくは、碌さんのまでみる。
齒車、芥川龍之介
僕はやつとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲つて行つた。するといつか道を間違へ、靑山齋場の前へ出てしまつた。それは彼是十年前にあつた夏目先生の告別式以來、一度も僕は門の前さへ通つたことのない建物だつた。十年前の僕も幸福ではなかつた。しかし少くとも平和だつた。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房」の芭蕉を思ひ出しながら、何か僕の一生も一段落のついたことを感じない訣には行かなかつた。のみならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて來た何ものかを感じない訣にも行かなかつた。
かう云ふ僕を救ふものは唯眠りのあるだけだつた。しかし催眠劑はいつの間にか一包みも殘らずになくなつてゐた。僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪へなかつた。が、絶望的な勇氣を生じ、珈琲を持つて來て貰つた上、死にもの狂ひにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出來上つて行つた。僕はこの小説の世界を超自然の動物に滿たしてゐた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像畫を描いてゐた。けれども疲勞は徐ろに僕の頭を曇らせはじめた。僕はとうとう机の前を離れ、ベツドの上へ仰向けになつた。それから四五十分間は眠つたらしかつた。しかし又誰か僕の耳にかう云ふ言葉を囁いたのを感じ、忽ち目を醒まして立ち上つた。
「Le diable est mort」
凝灰岩の窓の外はいつか冷えびえと明けかかつてゐた。僕は丁度戸の前佇み、誰もゐない部屋の中を眺めまはした。すると向うの窓硝子は斑らに外氣に曇つた上に小さい風景を現してゐた。それは黃ばんだ松林の向うに海のある風景に違ひなかつた。僕は怯づ々々窓の前へ近づき、この風景を造つてゐるものは實は庭の枯芝や池だつたことを發見した。けれども僕の錯覺はいつか僕の家に對する郷愁に近いものを呼び起してゐた。
僕は九時にでもなり次第、或雜誌社へ電話をかけ、兎に角金の都合をした上、僕の家へ歸る決心をした。机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗のやうに疊んだ翼が一つ見えはじめた。それは實際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乘つた自動車のラディエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。………
そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて來たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて體を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顏を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。………」
妻はやつと顏を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな氣がしたものですから。………」
それは僕の一生の中でも最も恐しい經驗だつた。――僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ氣もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?
蜃氣樓、芥川龍之介
僕等はもうその時には別莊らしい篠垣や松林の間を歩いてゐた。木札はどうもO君の推測に近いものらしかつた。僕は又何か日の光の中に感じる筈のない無氣味さを感じた。
「縁起でもないものを拾つたな。」
「何、僕はマスコットにするよ。……しかし 1906 から 1926 とすると、二十位で死んだんだな。二十位と――」
「男ですかしら? 女ですかしら?」
「さあね。……しかし兎に角この人は混血兒(あひのこ)だつたかも知れないね。」 p>
僕はK君に返事をしながら、船の中に死んで行つた混血兒の靑年を想像した。彼は僕の想像によれば、日本人の母のある筈だつた。
「蜃氣樓か。」
O君はまつ直に前を見たまま、急にかう獨り語を言つた。それは或は何げなしに言つた言葉かも知れなかつた。が、僕の心もちには何か幽かに觸れるものだつた。
雪國、川端康成
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。
コンビニ人間、村田沙耶香
外から人が入ってくるチャイム音が、教会の鐘の音に聞こえる。ドアをあければ、光の箱が私を待っている。いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている。
迷彩色の男、安堂ホセ
目を閉じると、ライトとスモークの中、まだらな濃淡をまとった彼の手が、刃物の光を素早く走らせていった。
迷彩色の男が、脳裏に浮かびあがった。
ドミトリイ、小川洋子
ある夜春の嵐が吹き荒れ、雷が鳴った。今まで出会ったことのないくらい激しい雷だった。あまりにも激しすぎて、最初は幻想的な夢を見ているのかと思った。群青色の夜の中を短い光が何度も走り、そのたびにガラスの食器棚が倒れ粉々に砕けるような音がした。遠くからまっすぐに響いてきた雷鳴がうちの屋根の真上で破裂し、その名残りが消えないうちにもう次の雷が破裂していた。次から次へと重なりあう雷鳴は、手でつかめそうなくらい近くに聞こえた。
嵐はいつまでも止まなかった。わたしはベッドの中から、海の底と錯覚しそうな深い闇を見つめていた。じっと息を殺していると、闇がか細く震えているのが分った。闇の粒子が、怯えるように宙でぶつかり合っていた。わたしは一人きりでも、少しも怖くなかった。嵐に包まれ、安らかな気持ちにさえなることができた。それは、自分がどこか遠くへ運ばれてゆくような安らかさだった。自分一人では到底たどり着けない遥かな場所へ、この嵐が連れていってくれるような気がした。そこがどこなのかは、よく分らなかった。ただ、すべてがしんと静止した濁りのない場所だということだけは感じ取ることができた。わたしは嵐の音を聞きながら闇に眼を凝らし、その遠い場所を見ようとした。
そして嵐の次の日、いとこがやってきた。
爪と目、藤野可織
それと同時に、あなたは、あなたがなにに関心を持ち、なにをよみこびとして生きてきたのかさっぱり思い出せなくなっていた。
あなたは、それまでの生活を思い返した。大学に入学して一人暮らしをはじめ、父のマンションに越してくるまての日々を。あなたはそれらの日々を、つがなく生活してきたはずだった。幾度となく調理をし、掃除をして、洗濯をし、必要なものを買っては捨て、捨てては買い、身なりを清潔に保ち、大きくは頭を崩すこともなく、そのときどきで相応に働いて金銭を得て、そのすべてにおいて、とくべつな苦痛も快楽も持たなかった。あなたには、書いて残したいことなどなにもなかった。まして、不特定多数の他人に見てもらいたいものなど、なにもなかった。
冬と手紙と、芥川龍之介
僕はかう云ふ話の中にふと他の水際に澤蟹の這つてゐるのを見つけました。しかもその澤蟹はもう一匹の澤蟹を、――甲羅の半ば碎けかかつたもう一匹の澤蟹をじりじり引きずつて行く所なのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論の中にあつた蟹の話を思ひ出しました。クロポトキンの敎へる所によれば、いつも蟹は怪我をした仲間を扶けて行つてやると云ふことです。しかし又或動物學者の實例を觀察した所によれば、それはいつも怪我をした仲間を食ふ爲にやつてゐると云ふことです。僕はだんだん石菖のかげに二匹の澤蟹の隱れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話してゐました。が、いつか僕等の話に全然興味を失つてゐました。